「甲斐国」「越後国」「肥前国」――時代劇や歴史小説でよく目にするこうした「◯◯国」という呼び方は、実は現在の都道府県境のベースになった、飛鳥・奈良時代に生まれた行政区分です。この「令制国(りょうせいこく)」は、驚くことに江戸時代が終わるまで、約1000年間ほとんど姿を変えませんでした。
701年、大宝律令で全国に「国・郡・里」を整備
日本で本格的な中央集権国家の仕組みが整えられたのは、701年(大宝元年)に制定された大宝律令がきっかけです。この法律に基づいて、全国は「国」、その下に「郡」、さらにその下に「里」という3段階の行政単位に整理されました。これが後に令制国と呼ばれる仕組みの原型です。
最終的に確定した68の国
こうして整備された令制国は、最終的に68か国にまとまります。「五畿七道(ごきしちどう)」――都に近い5つの国(山城・大和・河内・和泉・摂津)と、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という7つの広域圏――に分類され、日本全体を体系的に把握する仕組みとして機能しました。
境界線だけが1000年近く生き残った
この68か国という枠組みは、実際の統治の実権が貴族から武士へと移っていった後も、地名・地理区分としては明治期までほとんど変更されずに使われ続けました。武士の時代になると「国」の政治的な実権は守護や大名に移りましたが、「この土地は上野国(こうずけのくに)」「あの土地は讃岐国」という地理的な呼び名自体は生き残り続けたのです。
まとめ
701年の大宝律令で整備された68の令制国は、飛鳥・奈良時代から江戸時代の終わりまで、実に1000年近くにわたって日本の地理認識の基本単位であり続けました。明治の廃藩置県によって政治的な役割は終わりましたが、その境界線の多くは、今の都道府県境という形で私たちの生活に今も残り続けています。
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