地域史
鳥取県、30年の物語――全国最後のスタバ出店と、戦後初の52万人割れ
2026年7月23日
2015年5月23日、鳥取駅前のシャミネ鳥取店に、全国47都道府県で最後となるスターバックスコーヒー1号店がオープンしました。それまで鳥取県は「日本唯一のスターバックス空白県」で、当時の平井伸治知事は「鳥取にはスタバはないが、日本一のスナバ(鳥取砂丘)がある」と発言。この「スタバ vs スナバ」のフレーズは全国的な話題となり、開店当日は大行列ができました。しかし、この10年で鳥取県が向き合ってきたのは、話題性の裏にある、もっと静かで重い変化でした。
鳥取県の人口は1988年の61万6,371人をピークに減少を続け、2026年4月には51万9,148人となり、戦後初めて52万人を割り込みました。直近1年間で6,542人が減少し、死亡数が出生数を上回る自然減が4,877人、転出が転入を上回る社会減が1,665人にのぼります。特に15〜24歳の転出超過が大きく、20〜24歳だけで900人を超えており、進学・就職を機に若者が県外へ出る流れに歯止めがかかっていません。減少のペースも加速しており、53万人を割ってから52万人を割るまでの期間は、直前の20カ月から16カ月へと短くなっています。
静かな人口減少の一方で、鳥取県は突発的な自然の脅威にも見舞われてきました。2000年10月6日、鳥取県西部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生し、境港市と日野町で震度6強を観測。住家の全壊397棟、負傷者138人という被害をもたらしました。それでも死者はゼロで、県は発生直後に災害対策本部を、11月には災害復興本部を設置し、比較的早い段階で復旧・復興に取り組みました。
産業の面でも、鳥取県は静かな転換点を迎えています。かつて電子部品・デバイス関連の工場集積地として知られてきましたが、車載向け液晶パネルを手がけていたジャパンディスプレイ(JDI)の鳥取工場は、需要縮小を受けて2025年3月に生産を終了しました。従業員約500人のうち、直接ラインに携わっていた120人は国内の他工場へ異動することになりました。県はこうした製造業の縮小を見据え、医療機器・創薬などの医療イノベーションや、データセンター・BPOといったサービス産業への転換を、新しい柱として位置づけようとしています。
一方で、時代を超えて受け継がれてきたものもあります。鳥取市の夏の風物詩「鳥取しゃんしゃん祭」は、因幡の傘踊りを誰でも踊れるようにアレンジし、1965年に第1回が開催されました。踊り子は初回の1,000人から急速に増え、1972年には4,000人を突破。しかし新型コロナウイルスの影響で開催が制限され、行動制限明け初の平常開催となった2023年の参加者は82連・2,100人と、ピーク時の半分程度にとどまっています。祭りの規模もまた、鳥取県が抱える担い手の課題を映す鏡になっています。
鳥取砂丘を中心とした観光は、人口減少とは対照的に踏ん張りを見せている分野です。令和6年の観光客入込動態調査によれば、鳥取砂丘・いなば温泉郷周辺を訪れた観光客数は334万5,000人にのぼりました。「スタバはないが日本一のスナバがある」というユーモアが全国に届いたように、鳥取県は少ない人口・知名度の低さを逆手に取った発信で、観光という形の交流人口を確保しようとしてきました。
2000年の地震にも倒れず、主力工場が閉じてもコロナ禍で祭りの担い手が減っても踊りをやめず、全国最後のスタバ出店をむしろ逆手にとって発信力に変えた鳥取県。それでも、若者の県外流出という静かな流れは止まっていません。戦後初めて52万人を割ったという数字は、派手な出来事の陰で進む、この30年でもっとも重い変化だったのかもしれません。それでも観光客は年間300万人を超えて訪れ、傘踊りの輪は規模を縮めながらも途切れることなく続いています。鳥取県の30年は、静かな縮小と、それに抗うように灯り続ける祭りと観光の光が、同時に進んできた歳月です。
この記事はMACHI.編集部が中立的な立場で執筆しています
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