地域史
広島県、30年の物語――廃墟から生まれた自動車メーカーが、世界最高益を更新するまで
2026年7月15日
1945年8月6日、広島市に投下された原子爆弾により、その年のうちに約14万人の命が失われ、街は一瞬にして廃墟と化しました。復興は財政難、人材難、資材不足という幾重もの困難に直面しましたが、特別法「広島平和記念都市建設法」のもと、広島は「世界平和記念都市として再建する」という目標を掲げて歩み始めました。1949年に平和記念公園の整備が本格化し、1952年に原爆慰霊碑が、1955年には原爆資料館が完成しています。
この復興を語る上で欠かせないのが、爆心地から約5.3キロに本社・工場を構えていた東洋工業、現在のマツダです。爆風と熱線により従業員119名が命を落とし、335名が負傷するという大きな被害を受けながらも、社内の医院は負傷者の救護にあたり、食堂や寄宿舎を避難者に開放しました。県庁や地元企業から社屋を間借りしたいという要望が相次いだ際、自社の操業再開の見通しすら立たない中で、当時の社長・松田重次郎はこれを二つ返事で受け入れたと伝えられています。同社の三輪トラック「バタンコ」は、焼け野原となった街の未舗装路を走り、人と物を運び続け、広島の復興そのものを支えました。
それから約80年。マツダは2024年3月期に売上高4兆8,277億円、営業利益2,505億円、純利益2,077億円という、いずれも過去最高の業績を記録しました。世界販売台数も前年比12%増の124万台に達しています。廃墟の中から一台のトラックで街を支えた企業が、今や世界的な自動車メーカーへと成長した。この歩みそのものが、広島の復興の物語と重なります。
夏の広島には、原爆とは異なる文脈で400年近く続く祭りもあります。「とうかさん大祭」です。1619年に開山した圓隆寺の稲荷大明神を祀るこの祭りは、「ゆかたの着始め祭り」として親しまれ、毎年6月最初の金曜から3日間、中央通り周辺には約45万人が訪れます。廃墟からの復興を経てもなお、こうした季節の行事が絶えることなく受け継がれてきたことも、広島の底力を物語っています。
14万人の犠牲という出発点から、世界最高益を更新する自動車メーカーへ。400年変わらない夏祭りの賑わいへ。広島県のこの30年、いやこの80年は、失われたものの重さを忘れずに、それでも前を向き続けてきた歳月です。
この記事はMACHI.編集部が中立的な立場で執筆しています
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