兵庫県、30年の物語――阪神・淡路大震災から医療産業都市へ

地域史

兵庫県、30年の物語――阪神・淡路大震災から医療産業都市へ

2026年7月14日

1995年1月17日午前5時46分。兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災は、死者6,434人、全半壊住宅約25万棟という、戦後の日本が経験したことのない被害をもたらしました。あれから30年。神戸の街を歩くと、震災の爪痕を探す方が難しいほど、まちは生まれ変わっています。けれど数字を丁寧に追っていくと、この30年は単なる「復興」の一言では語れない、痛みを抱えたまま前に進み続けた歳月だったことが見えてきます。

神戸市の人口は震災直後、わずか半年ほどで約9万5,000人、実に6%が失われました。しかし10年後にはほぼ震災前の水準まで回復しています。一方で、経済の傷はより深く残りました。兵庫県が日本のGDPに占める割合は、震災前の1994年に4.1%だったのに対し、直近の2021年でも3.7%までしか戻っていません。人は戻っても、経済の重心は完全には戻りきっていない。これが、兵庫県の30年の正直な姿です。

震災から11か月後の1995年12月、神戸市中心部に、一夜限りのつもりで灯された光の作品がありました。「神戸ルミナリエ」です。犠牲者への鎮魂として企画された第1回に、会期11日間で254万人もの人が訪れ、翌年以降も続けられることになりました。当初2週間だった会期は少しずつ短くなり、2015年には電球がすべてLEDに切り替わり、2020年から2022年はコロナ禍で規模を縮小しながらも、灯を絶やすことはありませんでした。2025年で30回目を迎えたこの光は、鎮魂から「まちの誇り」へと少しずつ意味を変えながら、今も冬の神戸を照らし続けています。

神戸港もまた、震災でコンテナ取扱量が急落し、世界順位を大きく落としました。1980年には世界4位だった神戸港は、2022年には72位まで後退しています。それでも2016年にはコンテナ取扱量が震災前の水準まで回復し、2018年には過去最多を記録するなど、粘り強く盛り返してきました。そして震災は、まったく新しい産業の種もまきました。復興事業として1998年に始まった「神戸医療産業都市」構想は、人工島ポートアイランドに再生医療やバイオメディカルの研究機関・企業を集積させ、今では340以上の機関、12,000人以上が働く日本最大級のバイオメディカルクラスターに育っています。スーパーコンピュータ「富岳」もこの地に置かれ、創薬や防災研究に活用されています。震災からの復興が、次の産業を生み出したのです。

一方で、震災の混乱も時代の変化も揺るがなかったものもあります。姫路市の松原八幡神社で毎年10月に行われる「灘のけんか祭り」は、14世紀にはすでに行われていたと伝わる、県指定の重要無形民俗文化財です。3基の神輿をぶつけ合う勇壮な神事は今も変わらず受け継がれ、地元では10月を「祭月」と呼ぶほど、1年の暮らしがこの祭りを中心に回っています。こうした地域の祭りや行事は、震災後の混乱の中でも、人々が「ここに帰ってくる場所」であり続けました。

人口動態は、この30年で最も静かに、しかし大きく変わった数字かもしれません。兵庫県全体の人口は2025年1月時点で約525万人。10年前の2015年と比べて5.2%減少し、16年連続の減少となっています。高齢化率も2020年時点で29.3%に達し、2050年には人口の4割が65歳以上になると見込まれています。一度きりの震災だけでなく、日本全体が抱える人口減少という、もっとゆっくりとした変化とも、兵庫県は向き合い続けてきました。

それでも、瓦礫の街から医療産業の集積地が生まれ、鎮魂の灯りが30年灯り続け、700年近い歴史を持つ祭りが今も受け継がれている。兵庫県の30年は、失ったものを数えるだけでは語れません。数字の裏にある一つひとつの選択と積み重ねが、今の兵庫県をかたちづくっています。

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この記事はMACHI.編集部が中立的な立場で執筆しています

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